今だから知りたい吉田松陰

第9回 密航計画〜その1

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:吉田なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

長崎無情、そして下田へ

それで松陰さんは黒船を見ることができたの?



翌日深夜に浦賀に着いて、翌朝から観察を始めている。その後佐久間象山の一行と合流して戦力分析をした松陰は「勝算甚だ少なく候」。つまり今の日本の戦力ではとても太刀打ちできないと判断する。

さすが軍学者ね。冷静に見てたんだ。



冷静というより凄く怒っていたんだ。手紙にはこうある。「何分太平を頼み、余り腹つづみをうちおると、事ここに至り、大狼狽の体、憐れむべし、憐れむべし」。

どうしてこうなるまで何の手も打たなかったの?っていうことかな。



そう。しかも興味深いことに、手紙にはうわさ通りアメリカの船が来たと書いているから、すでに松陰は何らかの情報を持っていたようだね。もっとも、幕府はかなり前からオランダや薩摩藩を通じて黒船来航の情報は掴んでいたんだけど…。

やっぱり甘く見ていたのかなぁ…。



この事件は、松陰の考え方、生き方を一変させた。藩に戻った松陰は『将及私言』という意見書を書き上げる。これは「日本は幕府の私有物ではない。今後は諸藩と協議して朝廷を奉じるべし」という内容で、黒船という武力の前に為す術がなかった幕府に対する激しく失望が感じられるんだな。

松陰さん、だんだん過激になってきたのね。



そもそも脱藩者の意見書だから問題視されたけど、内々に藩主の敬親には渡っている。松陰が尊皇攘夷思想に方向を固めたのはこの時からではないかと思う。もう弱体化した徳川幕府だけに任せてはおけない、朝廷を中心にした国家再編を進めないと、日本は列強に侵略されるという松陰の強い焦りが感じられるね。

殿様は松陰さんの弟子だから、かなり影響されたかもね。



長州藩は関ヶ原の“負け組”になって以来、徳川家には煮え湯を飲まされ続けてきたから、代々秘かに「倒幕」の志があったと言われているんだ。明治になってから敬親は「それは俗説」とやんわり否定しているけど、黒船来航を契機に「倒幕」まではいかないけど、朝廷をトップにおいて幕藩体制を強化する「公武合体」が諸国雄藩から叫ばれるようになってくる。

松陰さんの考えはどうだったの?



松陰もまだ「倒幕」までは考えていなかったと思うよ。こんな非常時に内戦やってる場合じゃないからね。しかし、自分の師である山鹿素水を始めとする和流兵学の面々が、誰も幕府に異議を唱えなかったことに激しく失望する。結局、非常時には何の役にも立たないじゃないか。だったらこんな学問捨てちまえ、これが松陰の出した結論だった。

今まで必死に学んできたことを捨てるなんて、潔いというか過激と言うか…。


その分洋学に傾倒し始めた松陰は、海外留学を切望するようになる。まず敵を知ることから始めようということだな。しかし、まだ鎖国が解かれたわけじゃないし、藩も幕府も許すはずがない。

そこで突然、海外留学って思い立つところが、やっぱり並みの人間じゃないわね。


そんな折に、ペリーの来航から1カ月半ほど遅れて、プチャーチンを代表とするロシアの艦隊が長崎に現れた。そこで松陰の留学願望を聞いた佐久間象山がこんな入れ知恵をするんだな。「漂流民を装ってロシアの船に乗り込んでしまえ」

弟子も弟子なら先生も先生ね。ちょっと過激すぎない?



象山は早くから幕府に留学の必要性を訴えていたんだけど、幕府は耳を貸さなかった。ただ、漂流民としてアメリカに渡り、幕府の要職に就いたジョン万次郎の例もある。象山はピョートル大帝の信奉者だし、ロシアは数多くの日本人漂流民を助けて送り届けた実績がある。加えて「ゴローニン事件」を通じて豪商・高田屋嘉兵衛を賞賛していたから、まぁ、多少日本に対してシンパシーがあった。だから象山の助言はあながち間違ったものではなかったと思うよ。

それで、松陰さんは実行に移したの?



早速、長崎に向かうんだけど、途中で熊本の親友・宮部鼎蔵を訪ねたのがいけなかった。横井小楠なんかにも会えたから、ここで盛り上がっている間に、ヨーロッパでクリミア戦争が勃発。長崎にとどまるはずだったロシア船が予定を変更して長崎を離れるんだ。

あらら〜、っていうことはもしかして…。



そう。松陰が長崎に着いた時はあとの祭り、4隻のロシア船は影も形もなかった。歴史学者が良く口にする松陰の「運の無さ」は、この時から始まる。

松陰さん、がっかりしたでしょうね。



がっかりするどころが、ますます留学願望に火がつくんだな。一旦萩に戻った松陰は、江戸へ向かう。もう居ても立ってもいられなかったんだろうね。この時、松陰にとって信頼できる師は佐久間象山ただ一人だった。象山の方も後に「米百俵」のエピソードで有名になる長岡藩士・小林虎三郎と松陰に最も期待をかけていたからね。象山はこんな言葉を残している。「松陰の胆略と虎三郎の学識、皆稀世の才なり。ただ天下に事を成すのは松陰で、わが子の教育をせしむべき者は虎三郎ただ一人である」

寅次郎に虎三郎かぁ。先生が象で生徒が虎なんだ。まるで動物園ね。



「象門の二虎」って呼ばれたぐらいだからね。松陰の象山評も凄いよ。「佐久間象山は当今の豪傑、部下一人に御座候。朱に交はれば赤の説、未だにその何に因るを知らざれども、健概気節、学問あり、識見あり」。

意味は良くわからないけど、要するに絶賛していたわけね。



松陰たちが江戸で次の対策を練っているうちに、年が明けて安政元年(1854)1月、ペリー艦隊が予定より早く神奈川沖に現れる。まぁ、この間の経緯はこちらで読んでいただくとして、結局幕府は国論を統一できないまま、下田で日米和親条約に調印する。

となると松陰さんはやっぱり…。



当然、黒船での密航を企てる。今度は失敗できないからね。江戸藩邸にいた弟子の金子重之助と共に“背水の陣”で下田に向かうんだ。


←ロシアの全権大使として来日したエフィム・プチャーチン

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