今だから知りたい吉田松陰

第8回 諸国遊学と脱藩〜その2

語り手:大江戸蔵三
都内の某新聞社に勤める整理部記者。三度のメシより歴史が好きで、休日はいつも全国各地を史跡めぐり。そのためか貯金もなく、50歳を過ぎても独身。社内では「偏屈な変わり者」として冷遇されている。無類の酒好き。

聞き手:吉田なぎさ
都内の某新聞社に勤める文化部の新米記者。あまり歴史好きではないのだが、郷土史を担当するハメに。内心ではエリートと呼ばれる経済部や政治部への異動を虎視眈々と狙っている。韓流ドラマが大好き。

脱藩、そして黒船

結局、寅次郎君は佐久間先生から何を学んだの?


もともと象山は儒学者だったからね。寅次郎と同様、伝統的な学問の権威だった。それが江川英龍の下で洋式兵学を学ぶうちに、こちらの方が現実に即していると感じ、あっという間に洋学の大家になった。「宇宙に実理は二つなし」とは象山の言葉だ。

なるほど。正しいと思ったら迷わず方向転換しろってことか。


そう。寅次郎が学んだのは、表向きは西洋兵学であり、砲術だけど、最大の収穫は、今役立つ学問を身につけたいならば、過去を捨て、リセットする勇気を持つ、自分を縛るものから自分を解放するという哲学を得た事だな。そして、開国派の象山から見れば、寅次郎はまだまだ“井の中の蛙”であり、もっと広い世界を見なければ何もわからないということさ。

萩では超エリートだったのに、世界は広くて、上には上があることを知ってしまったのね。

そうなんだ。それまで理想的なエリートだった寅次郎は、この頃から一転、問題児になっていく。7月に藩に旅行願いを提出するんだけど、目的は盟友・宮部鼎蔵との東北旅行だった。

どうしてまた、東北に行こうなんて思ったのかな?


ひとつは江戸で知り合った南部藩士、江幡五郎が仇討ちのために東北に戻るという道中に便乗したこと。さらに、寅次郎自身の証言では、兵学に携わる者として天下の形勢を見ておきたい、しかも東北は満州、ロシアにも近いということらしい。

いろんなところを見たくてじっとしていられなかったっていうのがホンネみたいね。


まぁ、実際にはそうだろうね。で、藩の許可は下りたんだけど、正式な手形が出発直前になっても届かない。そこで寅次郎はどうしたと思う?

友達に出発を待ってもらったんじゃないの? だって手形がないと関所を通れないって蔵三さんが前に言ってたじゃない。

今までの寅次郎ならそうしただろう。しかし、象山の影響を受けて「自己の開放」に目覚めちゃったからね。手形の到着を待たずに出発しちゃった。

えっ? それって許されるの?



当然、許されない。手形を持たずに他藩に行くということは、事実上の脱藩ですよ。江戸時代の脱藩というのは、国籍を捨てるようなものだ。パスポートがないんだから誰も守ってはくれないし、身分も保障されない。21歳の青年としては思い切った事をしたものだね。でも、寅次郎にしてみれば、藩籍よりも友人との約束が大事という理屈なんだな。

寅次郎君、すっかり変わっちゃったのね。自由すぎちゃって怖いくらい。


江戸の藩邸では大騒ぎになっただろうけど、寅次郎はお構いなしだ。精力的に歩いて各地で見聞を深める。水戸では藩校・弘道館総裁だった会沢正志斎に会って「水戸学」に触れ、後に寅次郎の基本思想となる「尊皇攘夷」の理念を学ぶ。

「尊皇攘夷」ってよく聞く言葉だけど、どういう意味だっけ?


読んで字のごとしで、王、つまり天皇を尊び、夷、つまり外国人を排除するという意味だ。水戸に1カ月滞在した後、白河で江幡と別れ、今度は会津に向かった。会津では藩校の日新館を訪問している。

相変わらず勉強好きねぇ。折角行ったのに観光とかしなかったの?


今回の旅行は“浪人”の身分だからね。結構物見遊山の雰囲気があるよ。会津から日本海に抜けて佐渡、秋田、弘前と海岸線に沿って移動、竜飛岬まで行って、青森から石巻、中尊寺を見て日光東照宮や足利学校まで足を伸ばしている。

江戸時代だから基本歩きでしょ。どのくらいかかったの?


12月14日に江戸を出て、戻ったのが翌年の4月5日だから、ほぼ4カ月だ。


一応江戸に戻ったのね。藩からお咎めはなかったの?


もちろん、すぐ萩へ戻れということになって、7カ月の謹慎、吉田家の断絶、士籍削除と厳しい処分だったけど、実際には「育(はぐくみ)」といって藩から追放せず、父・百合之助の保護観察下に置くという措置で救われた。さらに藩主の毛利敬親は百合之助に寅次郎の遊学願いを出すよう勧めた。

最初から許可するつもりだったんでしょ。殿様は優秀な頭脳を失いたくなかったのね。


敬親の寛大な措置で、嘉永6年(1853)、寅次郎は10年間の他国修行を許された。少なくとも10年後には藩籍を戻してやろうという腹だったと思うよ。これで晴れて寅次郎は江戸に向かうことができた。余談だけど、実際に“寅次郎”と名乗り始めたのはこの前後だと言われているんだけど、同時に“松陰”という号も使い始めているから、これからは寅次郎じゃなくて、正式に吉田松陰と呼ぶことにしよう。

その頃には23歳になってるわけだから、もう寅次郎君じゃなくて松陰さんって呼んだ方がいいわね。

今度は大坂、奈良、伊勢と上方を経由して江戸に行ったから、これで松陰は九州と本州をほぼ巡ったことになる。

どこに行ってもいいし、どんな勉強をしてもいいってことになったんだから、松陰さんとしては嬉しかったでしょうね。

早速、佐久間象山のもとで勉強を始めて、腰を据えて洋学を学ぼうとしたんだけど、時代の流れがそれを許さなかった。6月3日、日本の運命、そして松陰の運命を大きく変える事件が起きる。さすがにキミも知ってるだろ。

日本の運命を変えたって言えば、やっぱり「黒船」でしょ。


そう。ペリー率いるアメリカの太平洋艦隊が浦賀沖に現れた。欧米列強の脅威という不安が現実になったわけだ。松陰は急いで浦賀に向かう。この時の心境について後に「心甚だ急ぎ、飛ぶが如し、飛ぶが如し」と綴っている。もう、居ても立ってもいられなかったんだろうね。

軍艦サスケハナの図(船の科学館蔵)→

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